『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』は、父に両腕を切り落とされた娘の冒険譚。
鮮やかな水墨画が躍動するかのような長編アニメーションだ。
グリム童話の一編「手なしむすめ」を現代に蘇らせたフランスのつくり手が築いたスタンスを探る。


──『~手をなくした少女』は世界の映画祭で評価を受けています。その要因はなんだと思いますか?
「まったくわかりません(笑)。そもそもこの作品は何も考えず、気楽につくり始めたんです。完成までこぎ着けるか自信もなかったし、何より、誰もこの作品の完成を待ってはいませんでしたから。ところが途中からパートナーが加わった。それはプロデューサーや配給会社なのですが、制作途中のものを観て『素晴らしい』『ぜひ一緒にやりたい』と言ってくれたんです。そして、『カンヌ国際映画祭に間に合うように完成させてくれ』と」
──それが制作の推進力になったと。
「ただその瞬間から急に怖くなりました。『なんてこった! 観にくる人がいるなんて!』とね。そりゃ、アイデアもいいし、観て刺激を受ける学生もいるだろうとは思っていましたよ、でも、映画として面白がる人がいるとは想像もしていなかったので」

短編作品と長編では、観客層が違う
──本作はアヌシー国際アニメーション映画祭審査員賞ほか、多くの映画賞を獲得されました。結果的には、少なからぬ人たちに受け入れられましたよね。
「私が分析するに、そこにはふたつの理由があると思います。ひとつは原作の力です。この童話は時代を超えて根源的で普遍的な物語。だから感動を呼ぶのかもしれません。もうひとつの理由は、自由なつくり方をしているところにあると考えています。もちろんこの自由さを拒絶する観客もいます。一方、受け入れてくれた人は、ある種の息吹を感じたい方だったんだと思います」
──これまでも観客がいなかったわけではないですよね、短編を何本も制作されていましたし。
「短編はほかの人がつくった作品と一緒に上映される。スタイルはそれぞれ違うわけで、短編の観客は作品の幅や自由さを求めている。長編は観客層が違います。家族であったり、一般的な方たちが観る。長編アニメーションで使う言語はなんというか……クラシックな要素が強いと思います」

自分自身の物語なので、客観視できない
──さきほど「観られることを思うと恐怖した」との発言がありましたが。
「主人公の少女はもちろん、悪魔、王子、水の女神も自分の分身なんです。つまり、この作品には自分の鏡のようなところがある。短編なら引いた視線で捉えられるけど、この作品は、距離を持って観ることができないんですよ」
──それで恐怖したと。質問を変えますけど、映画祭に出品するという目標が立ってから、賞を意識したり、ウケを狙ったりはしませんでしたか?
「プロデューサーや配給会社は戦略を練っていたかもしれません。ただそれは彼らの話であって、私は作品を完成させることだけを考えていました。観客層など、いわゆるマーケティング的なことは頭に一切なかった。なので、作品が完成していろいろな国で上映されるいま、それぞれの国でどのように観られるのかがとても興味深いんです」

2018.8.17
[photo]久田路 [text]八王子真也

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sébastian laudenbach
73年フランス生まれ。国立高等装飾美術学校でアニメーションを学ぶ。おもな作品に『JOURNAL』(98/クレルモンフェラン国際短編映画祭Youth賞受賞)、『DES CALINS DANS LES CUISINES』(04/セザール賞最終選考)、『REGARDER OANA』(09/アヌシー国際アニメーション映画祭、クレルモンフェラン国際短編映画祭選出)、『VASCO』(10/カンヌ国際映画祭批評家週間で上映、12年のセザール賞最終選考)、『DAPHNÉ OU LA BELLE PLANTE』(15/シルヴァン・デロインと共同監督。アヌシー国際アニメーション映画祭エミール・レイノー賞受賞)、パリ国立オペラのウェブサイト用に制作した『VIBRATO』など。


大人のためのグリム童話
手をなくした少女

監督/セバスチャン・ローデンバック
配給/ニューディアー (16/フランス/76min)
貧しい生活に疲れた父親が悪魔と取引したことによって、両腕を切り落とされてしまう娘。彼女は家を飛び出し放浪するが、やがて王様に見初められ、黄金製の義手を手に入れ、子宝にも恵まれる。ところがその暮らしにも悪魔の手が伸びてきて……。8/18~ユーロスペースほか全国順次公開
©Les Films auvages –2016


映画『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』
オフィシャルサイト


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