1z 毎熊克哉×林知亜季〈前篇〉

毎熊克哉さん林知亜季さん

 

2008年に柾賢志、毎熊克哉、佐藤考哲、林知亜季によって結成された映像製作ユニット「Engawa Films Project」。
藤原季節を主演に迎え、制作された第一回長編作品が『東京ランドマーク』。
完成まで紆余曲折あったという本作の経緯は?


自分の意識との格闘の方が印象に残っています

――Engawa Films Projectが結成された経緯から、教えてください。
毎熊「出会った当時は20代の半ばで、4人とも俳優だったんです。それぞれ接点があった演出家の方から、『お前ら、自分たちで映画を撮ったらいいじゃん』と言われたのが始まりです。だから、もともとは仲が良かったわけではなくて、変な話、お互いに興味がなかったから、『え? こいつと?』みたいな(笑)」
林「要するにみんな暇でイライラしていたんです(笑)」
毎熊「(笑)。活躍の場がなくて、ぼーっとしていても何も起きないから、それで『じゃあ、やる?』みたいなところから始まりました」
林「それぞれが監督をやって」
毎熊「監督じゃない人が出演していました」
林「映像で演技をする練習みたいなノリで始まったね。そうしたら楽しくて、続いていった。お互いほめ合いながら」
毎熊「それで何本もやっていくうちに、自ずと結束感ができて、『名前とかつけちゃう?』みたいな(笑)」
林「サークルみたいにね」
毎熊「『いつか長編もやりたいね』『自分たちの映画を流す映画祭をやりたいね』と、青い夢をだんだん持っていった感じです」

――インディペンデント映画の制作体制は、距離が近い分、揉める印象もあります。長く続けられている理由は何だと思います?
毎熊「十分揉めてるんです(笑)」
――(笑)。その理由は?
林「クリエイティブなことで揉めているようで、実は言葉づかいとかで(笑)」
毎熊「確かに(笑)」
林「柾の存在が大きくて、俺と毎熊くんだけだったら、とっくに終わっていたかもしれない。4人とも性格がバラバラなんだけど、柾とは誰かが必ず連絡を取っていて、それでずっと続いているのかもしれない」
毎熊「『東京ランドマーク』をつくっている最中、林さんとぶつかったときも、柾さんが間を取り持ってくれましたね」
――『東京ランドマーク』は、完成までどのような経緯が?
毎熊「撮影が終わって、脚本通りにつなげたら4時間弱あったんです。一度は『このままでいいじゃん』となったんだけど、僕は『このままはないだろう』と思って。そこから林さんが編集の直しを3ヶ月ぐらいやって、90分ぐらいになったんです。でも、そのバージョンはこの映画の良さが最大限に出てないと思った。当時、僕は映画祭に出したり、インディペンデント映画によくある流れを考えていたのですが、一旦編集が止まっちゃったんです。でも、林さんが監督なんだから、口を挟めるところではないと思って、しばらくそのままになっていました」
林「そうだね」
毎熊「1年が経って、(藤原)季節が特集上映をやるので新作を出したいと林さんに言って、締め切りができたわけです(笑)。そこから林さんが編集をやり直して、ほぼいまのものになりました」
――粗々しくて、昔のインディーズ映画の匂いがしました。
林「そう言われることはありますね」
――いわゆる商業映画とは違うテイストがありますが、編集作業はなにが難しかったのですか?
林「感覚的なきつさが何カ所かありました。一時期は普通の映画っぽくしなきゃいけないのかな?とか考え始めてしまった。でも、そういう作風で撮っているので、そっちに寄せると下手くそな映画になる。そこの塩梅、答えが見つからなかった。締め切りができて、エンドロールをつけたら映画っぽいだろ、ぐらいの気持ちで投げたら、それが一番いいとみんなが言ってくれました。自分の意識との格闘の方が印象に残っています」

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